SSブログ

喜納昌永先生 [三線教室]


わたしの所属する、うるま民謡協会の名誉会長でありました、喜納昌永先生が
沖縄県の文化功労者で表彰されました!!

琉球新報より抜粋
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-152128-storytopic-156.html

県は30日、2009年度県功労者を発表した。
地方自治、文化、体育・スポーツ、社会福祉、
産業経済、一般篤行の6分野で功績のあった10氏。

▽喜納昌永(きな・しょうえい)(88)
=元沖縄民謡協会名誉顧問、元うるま民謡協会名誉会長
 琉球民謡の歌い手として第一線で活躍する傍ら、
正調琉球民謡工工四を作成し琉球民謡の保存と普及に取り組んだ。
後継者育成など芸能文化の発展に貢献した。


喜納昌永先生は、喜納昌吉さんのお父上でありますよ!

おめでとうございますm(_ _)m



喜納昌永(きな しょうえい、1920~、沖縄北中城村出身)は、沖縄・屋嘉の捕虜収容所で、「屋嘉節」をカンカラ三線で歌い、人々の心を勇気付け、その後の沖縄民謡界で、多大なる貢献と精力的な活動で不動の地位を築いてきた。

世界的大ヒット曲「花」を歌う喜納昌吉&チャンプルーズのリーダー・喜納昌吉は彼の息子である。

戦後は嘉手納基地の軍作業をしながら、昭和25年に小浜守栄に弟子入りし、昭和33年に「素人のど自慢」番組で鐘3つを鳴らしてからは早弾きと美声でたちまち名をあげた。

あちこちの宴会やお座敷から声が掛かるうち、これを商売とするために、彼は、「歌」「三線」「太鼓」を軸とした現在民謡クラブで標準編成となっている『民謡バンド』を最初に考案した。

また男女2人で歌う『コンビ』という編成を最初に考案したのも彼である。こちらは結婚式の席などから引っ張りダコとなった。


和40年頃、喜納昌永が城間ひろみと『コンビ』でキャバレーやクラブに出演するうちに、予想外の大好評となった。そこで、酒場のBGMに民謡を歌うのでは
なくて、民謡を主役にした酒場・クラブを創ろうと考えた。これが現在沖縄名物になっている『民謡クラブ(民謡居酒屋)』である。
昭和46年に開店した「ミカド」が彼の作った代表的な店である。

さらに、現在の沖縄民謡に欠かせない打楽器『三板(さんば)』を考案した。

「通い船(かゆいぶに)」のデビュー・ヒットを大きなきっかけとしてラジオ、ライブと引っ張りだことなったが、不運なことに本土復帰後、しばらくして美声で知られたそのノドに腫瘍ができ引退を余儀なくされた。1988年、見事カムバック。

以上、『民謡バンド』『コンビ』『民謡クラブ』『三板』を最初に考案した人物であり、戦後沖縄民謡界に欠かせない重要人物のひとりである。

こちらより引用させていただきました)


喜納昌永
http://www.beats21.com/ar/A01051212.html
喜納昌永(Amazon)
http://www.amazon.co.jp/s?ie=UTF8&field-artist=%E5%96%9C%E7%B4%8D%E6%98%8C%E6%B0%B8&rh=i%3Amusic-artist%2Cp_32%3A%E5%96%9C%E7%B4%8D%E6%98%8C%E6%B0%B8&page=1



2009.12.27追記

喜納昌永先生、12/24 AM2:58、88歳にて永眠されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

00-091227_45.jpg

 

00-091227_46.jpg
当日、那覇で買った沖縄タイムスのお悔み欄。

00-091227_43.jpg
喜納さんのライブハウス「チャクラ」もこの日は休業日でした。


朝日新聞より引用

喜納 昌永さん(きな・しょうえい=沖縄民謡歌手、参院議員喜納昌吉さんの父)が24日、梨状陥凹がんで死去、88歳。葬儀は27日午後2時から沖縄県浦添市伊奈武瀬1の7の1のいなんせ会館で。喪主は妻千代さん。


 戦後の沖縄民謡界を代表する歌い手。1957年に民謡研究所をつくり、多くの民謡歌手を育成。沖縄の古典音楽の楽譜「工工四(くんくんしー)」を取り入れ、民謡の普及に努めた。

(引用おわり)

参考記事
喜納昌永さん亡くなる - 保坂展人のどこどこ日記
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/786f79fe8032e6a98d2c8b476aac6a04


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
 ☆☆  ☆☆